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ピルロ 2014年でイタリア代表引退へ

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ピルロ 2014年でイタリア代表引退へ






ユヴェントスに所属する

イタリア代表MFアンドレア・ピルロが、
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2014年のブラジル・ワールドカップ後に、代表チームから引退する意向を示した。

イタリア紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』などが報じた。

現在33歳のピルロは、「2014年で代表から退くことを考えているんだ。

次のワールドカップが、ブルーのユニフォームでは最後の舞台になると思っている。

若手に道を譲らないといけないね」と代表引退の意向を表明した。

なお、現役生活についても言及。「クラブでは、情熱がある限り続けて行きたい」と、

2014年以降も現役を続ける意志を明かした。

ピルロはイタリア代表で、2006年に行われたドイツ・ワールドカップでの優勝や

ユーロ2012での準優勝に貢献してきた。




1995年に地元のブレシアでセリエAデビュー。

翌年、クラブはセリエBに降格してしまうが、1年で昇格。

この時にイタリアの至宝ロベルト・バッジョと出会い、「自らの後継者」として指名された。

セリエBでのプレーが目に留まり、1998年7月1日に自身の憧れのチームでもあったインテルに移籍した。

しかし、トップ下と言うマークの集中するポジションを担う選手としては、

彼のフィジカルの脆弱さは致命的であった。

選手層の厚いインテルではまともな出場機会も与えられぬまま1999年にはレッジーナ、

2001年には古巣のブレシアにレンタルに出される。

ブレシアではカルロ・マッツォーネ監督の下、バッジョがいることもあり中盤の底でのプレーを経験する。

これが後に彼のサッカー人生を大きく変えることになる。

2001年7月1日、インテルのライバルであるACミランに完全移籍する。

しかし、トップ下にはマヌエル・ルイ・コスタがいたためファティ・テリム監督の構想外であり、

出場機会はほとんどなかった。

2001-02シーズン途中にカルロ・アンチェロッティが新監督に就任。

アンチェロッティもトップ下にはルイ・コスタを起用し続け、

試合出場を願うピルロは通常のトップ下のポジションではなく

ディフェンシブミッドフィルダーとしての起用を直訴する。

ピルロのブレシアでの経験を知っていたアンチェロッティはこれを承諾。

守備主体のポジションに攻撃の要の選手を起用することは当時まだ珍しかったが、

奇しくもその後のサッカー戦術を先取りする形となった。

トップ下ほどフィジカルの当たりが激しくない中盤の底で、

クラレンス・セードルフ、ジェンナーロ・ガットゥーゾといった強力なハードワーカーや

マッシモ・アンブロジーニのような守備能力に秀でたディフェンシブミッドフィルダーといった

チームメイトにも恵まれ、ピルロは攻撃の指揮を司る存在として、

長短織り交ぜた正確無比なパスを供給し続け、レジスタとしてのポジションを確立。

今までの不振が嘘のようなパフォーマンスを披露するようになる。

UEFAチャンピオンズリーグ優勝にも貢献した。

そして2007年のバロンドール投票で

カカ、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドに次ぐ4位の票数を獲得した。

2009年、恩師であるアンチェロッティがチェルシーFCの監督に就任したことにより、

チェルシーへの移籍が噂されていたが、残留した。

その後は故障が相次ぎ、本来の出来には程遠い状態が続いた。

2011年5月18日、6月30日で満了となる契約を延長せずに10年間在籍したミランを退団する事を発表。

5月24日、移籍金なしの3年契約でユヴェントスFCへ移籍した。

ライバルからの移籍であることや前年の不振から獲得には疑問の声が上がったが、

ミラン時代を思わせるような正確無比なパスで一躍不可欠な存在となった。

加入前は2年連続7位だったが、チームはアントニオ・コンテ新監督の下で快進撃を続け

2002-03シーズン以来(カルチョポリで剥奪されたタイトルを含めれば2005-06シーズン以来)の

スクデット獲得・ならびに1991-92シーズンのミラン以来20季ぶり2チーム目となる無敗優勝に貢献した。

また、この活躍によって、UEFA.comのシーズンレビューで年間最優秀選手に輝いた。



A代表初出場は2002年9月7日のアゼルバイジャン戦。

その後は代表に定着し、UEFA欧州選手権2004にも出場を果たしている。

アテネオリンピックにはオーバーエイジとして出場し銅メダル獲得に貢献した。

2006 FIFAワールドカップでは準決勝ドイツ戦で見せたファビオ・グロッソへのノールックパスなど、

大会を通じて好プレーを披露。初戦のガーナ戦、準決勝のドイツ戦、

決勝のフランス戦で3度のマンオブザマッチに輝き、ブロンズボール賞を受賞。

イタリアのワールドカップ優勝に大きく貢献した。

2010年のW杯南アフリカ大会にメンバー入りするも、負傷により初戦・第2戦を欠場する。

予選突破には勝利が必要となった第3戦には、1点ビハインドになったため後半途中から

強行出場し奮戦したが、スロバキアに2-3で破れグループリーグで姿を消した。

EURO2012ではハイプレスとポゼッションを基本としたチームの新戦術の中心として活躍。

準々決勝のイングランド戦ではPK戦にまでもつれ込み、

1人失敗したあとの3人目のキッカーとして登場すると

相手GKジョー・ハートをあざ笑うかのようなチップキックを陥れPK戦の流れを変える。

結果イタリアはPK戦を制し最終的には決勝に進出。

決勝ではスペインに大敗し準優勝だったが、

プレッシャーの掛かる場面でのチップキックに関して方々から

「凄すぎる」「怪物だ」などの賞賛の声が挙がった。
(Wikipediaより)







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